「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれる手紙があります。
これはベートーヴェンが悪化する難聴への絶望と、それでも果たさなければならない芸術家としての
使命感との間で揺れ動く心情を綴ったもので、甥であるカールと弟のヨハンに宛てられています。
『…6年このかた治る見込みのない疾患が私を苦しめているのだ。
物の判断も出来ない医者達のために容態はかえって悪化し、症状は回復するだろう
という気休めに欺かれながら1年1年と送るうちに、今ではこの状態が永続的な
治る見込みのないものだという見通しを抱かざるを得なくなったのだ。
人との社交の愉しみを受け入れる感受性を持ち、物事に熱しやすく、感激しやすい
性質をもって生まれついているにもかかわらず、私は若いうちから人々を避け、
自分ひとりで孤独のうちに生活を送らざるをえなくなったのだ。
耳が聞こえない悲しみを2倍にも味わわされながら、自分が入っていきたい世界から
押し戻されることがどんなに辛いものであったろうか。
…そのような経験を繰り返すうちに私は殆ど将来に対する希望を失ってしまい
自ら命を絶とうとするばかりのこともあった。』
(http://www.kurumeshiminorchestra.jp/beethoven_heiligenstaedt.html)
新進気鋭の音楽家としてウィーンの社交界に登場したベートーヴェンは、
自在な変奏による得意のピアノ即興演奏で名をはせた存在でした。
後年のイメージとは違い、ベートーヴェンは社交好きで人とのつながりも多く、
人々にもてはやされる日々は彼の心を高揚させました。
しかし、30代になるにつれ、彼の耳は次第に具合が悪くなり、
やがてはまともに人の声も聞きとれず、会話も困難になっていきました。
音楽家として耳が聞こえなくなるという事態はあってはならないもので、
ベートーヴェンはこの事実を悟られまいと社交界から遠のいていきました。
元来、人付き合いを好む彼には、難聴と同じくらいに苦痛なことでした。
(ベートーヴェンが散策した19世紀のハイリゲンシュタット)
人々の前から姿を消したベートーヴェンは、療養でウィーン郊外のハイリゲンシュタットに居を構え、
自然豊かなこの地で演奏よりも作曲に専念するようになっていきました。
日の出と共に作曲を開始すると昼過ぎには切り上げ、午後は数時間をかけて周辺を散策しました。
おそらく歩きながら楽想を練り、翌日には朝から譜面に書き留めていたものと思われます。
『そのような死から私を引き止めたのはただ芸術である。私は自分が果たすべきだと
感じている総てのことを成し遂げないうちにこの世を去ってゆくことはできないのだ。』
芸術家としての使命感から自ら命を絶つことを思いとどまったベートーヴェンは、
このような暮らしの中で後年に残る数々の名曲を生み出していきました。
そうした作品のひとつが交響曲第5番「運命」です。
過酷な運命に立ち向かい、人としての務めを果たすべく克服していく様を描いたこの曲は、
作曲から200年以上を経た今も、逆境に苦しむすべての人を励まし鼓舞し続けています。
遺書から6年が過ぎた1808年、「運命」は「田園」と共に作曲家自身の指揮で初演されました。
「運命」の作曲に着手したのは、遺書を書いた1801年から1802年の頃とみられています。
これはベートーヴェンが悪化する難聴への絶望と、それでも果たさなければならない芸術家としての
使命感との間で揺れ動く心情を綴ったもので、甥であるカールと弟のヨハンに宛てられています。
『…6年このかた治る見込みのない疾患が私を苦しめているのだ。
物の判断も出来ない医者達のために容態はかえって悪化し、症状は回復するだろう
という気休めに欺かれながら1年1年と送るうちに、今ではこの状態が永続的な
治る見込みのないものだという見通しを抱かざるを得なくなったのだ。
人との社交の愉しみを受け入れる感受性を持ち、物事に熱しやすく、感激しやすい
性質をもって生まれついているにもかかわらず、私は若いうちから人々を避け、
自分ひとりで孤独のうちに生活を送らざるをえなくなったのだ。
耳が聞こえない悲しみを2倍にも味わわされながら、自分が入っていきたい世界から
押し戻されることがどんなに辛いものであったろうか。
…そのような経験を繰り返すうちに私は殆ど将来に対する希望を失ってしまい
自ら命を絶とうとするばかりのこともあった。』
(http://www.kurumeshiminorchestra.jp/beethoven_heiligenstaedt.html)
新進気鋭の音楽家としてウィーンの社交界に登場したベートーヴェンは、
自在な変奏による得意のピアノ即興演奏で名をはせた存在でした。
後年のイメージとは違い、ベートーヴェンは社交好きで人とのつながりも多く、
人々にもてはやされる日々は彼の心を高揚させました。
しかし、30代になるにつれ、彼の耳は次第に具合が悪くなり、
やがてはまともに人の声も聞きとれず、会話も困難になっていきました。
音楽家として耳が聞こえなくなるという事態はあってはならないもので、
ベートーヴェンはこの事実を悟られまいと社交界から遠のいていきました。
元来、人付き合いを好む彼には、難聴と同じくらいに苦痛なことでした。
(ベートーヴェンが散策した19世紀のハイリゲンシュタット)
人々の前から姿を消したベートーヴェンは、療養でウィーン郊外のハイリゲンシュタットに居を構え、
自然豊かなこの地で演奏よりも作曲に専念するようになっていきました。
日の出と共に作曲を開始すると昼過ぎには切り上げ、午後は数時間をかけて周辺を散策しました。
おそらく歩きながら楽想を練り、翌日には朝から譜面に書き留めていたものと思われます。
『そのような死から私を引き止めたのはただ芸術である。私は自分が果たすべきだと
感じている総てのことを成し遂げないうちにこの世を去ってゆくことはできないのだ。』
芸術家としての使命感から自ら命を絶つことを思いとどまったベートーヴェンは、
このような暮らしの中で後年に残る数々の名曲を生み出していきました。
そうした作品のひとつが交響曲第5番「運命」です。
過酷な運命に立ち向かい、人としての務めを果たすべく克服していく様を描いたこの曲は、
作曲から200年以上を経た今も、逆境に苦しむすべての人を励まし鼓舞し続けています。
遺書から6年が過ぎた1808年、「運命」は「田園」と共に作曲家自身の指揮で初演されました。
「運命」の作曲に着手したのは、遺書を書いた1801年から1802年の頃とみられています。
ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調 Op.67 「運命」 第1楽章 [2020][IR]
Ludwig Van Beethoven:Symphony No.5 in C minor, Op.67
I. Allegro con brio [10:29]
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
Beethoven-Symphony-No5-1st-2020-IR.mp3
ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調 Op.67 「運命」 第2楽章 [2020][IR]
Ludwig Van Beethoven:Symphony No.5 in C minor, Op.67
II. Andante con moto [12:34]
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Beethoven-Symphony-No5-2nd-2020-IR.mp3
ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調 Op.67 「運命」 第3楽章 - 第4楽章 [2020][IR]
Ludwig Van Beethoven:Symphony No.5 in C minor, Op.67
III. Allegro - IV. Allegro-Presto [20:01]
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Beethoven-Symphony-No5-3rd-4th-2020-IR.mp3
*ベルリンフィルハーモニー大ホールの音響を使用しています。
*[IR]とはインパルス&レスポンシブの略です。
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