2014年12月31日


ベートーヴェン:交響曲 第9番 ニ短調 Op.125 第3楽章 [リスト編 2台ピアノ版]

リスト:ピアノ曲全集 28 - ベートーヴェン:交響曲第9番(2台ピアノ編)
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♪ベートーヴェンを敬愛し、ピアノ編曲にも力を注いだリスト

リストとベートーヴェンの関係の始まりは、リストがまだ12歳の少年だった頃に遡ります。

ハンガリーで天才ピアノ少年として名を馳せていたリストは、
わずか9歳ばかりにして、貴族たちから6年間の奨学金の申し出を受けるほどでした。

宮廷音楽団で合唱を歌ったり、チェロを弾くなど音楽好きだった父アダムは、
わが子リストの才能を伸ばすことに心血を注ぎました。
ですから、奨学金を受けるとすぐに、地元ライディングを引き払い、
音楽の都ウィーンへと、一家をあげて向かったのでした。

そこでリストは、ベートーヴェンの弟子で有能なピアノ教師である、
カール・ツェルニーにつき、本格的にピアノ奏法を学んだのでした。

我流だった演奏もめざましく上達し、教えるツェルニーを大変よろこばせました。

「こんなに才能があって、よく勉強する弟子は初めて」

と感激と共に書かれたものが残っています。

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ツェルニーはピアノのみならず、生活全般にわたってリスト一家の面倒をみました。
また、謝礼は一切受け取らず、ただ教えることによろこびを感じていたといいます。
こうしたツェルニーのあたたかい行為をリストは一生忘れず、恩人として敬愛しました。

ウィーンでの公演はデビュー以来、大成功が続き、ある日の公演に訪れた
ベートーヴェンは演奏が終わると、リストの額にキスをして褒めたといわれています。
これがまだ12歳のリスト少年と大家ベートーヴェンとの出会いでした。

それから幾年もの月日が流れ、自身も大音楽家となったリストは、
ベートーヴェンの音楽の偉大さを誰より理解し、尊敬する人間となっていました。

リストはピアノ・トランスクリプションとして、当時やそれ以前の作曲家たちの
優れた管弦楽作品などを、ピアノ編曲したものを多く残しています。
シューベルトからワーグナーまで、時代や作風は様々ですが、
中でも最も力を入れたのが、ベートーヴェンの九つの交響曲のピアノ編曲です。

トランスクリプションの場合、ただの編曲ではなく、ピアノだけで聴いても
遜色ないように音の補充などが行われ、ある意味新たな作曲と言える部分もあります。
もし、これを才能のない者が行えば、原曲の良さが損なわれるかもしれません。

その点、リストの場合、自身の才能の確かさ、そしてベートーヴェンに対する
理解や愛情の深さから、ピアノ作品としても充分に鑑賞に堪えうる内容になっています。
ベートーヴェンの壮大なオーケストラ作品を、ピアノだけで表現しようという、
強い意気込みと情熱が結晶化しています。

ベートーヴェンが亡くなった後、彼の故郷ボンに銅像を建てる上で、
資金の工面など、最も尽力を惜しまなかったのはリストその人でした。





ベートーヴェン:交響曲 第9番 ニ短調 Op.125 第3楽章 [リスト編 2台ピアノ版]
L.V.Beethoven:Symphony No.9 in D minor Op.125
3. Adagio molto cantabile [15:18] (Arr. by Liszt)



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2014年12月16日


ベートーヴェン:交響曲 第9番 ニ短調 Op.125 「合唱」 第1楽章 [2014]

ベートーヴェン:交響曲第9番≪合唱≫
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♪「鬼神が煙の中から立ち上がるようだ」と評された第1楽章

ベートーヴェンが第9の作曲に取りかかった当時、ウィーンではイタリアの作曲家、
ロッシーニの軽快で、肩肘張らずに楽しめるオペラが持て囃されていました。
モーツァルトやベートーヴェンは学者が好む、一昔前の音楽と敬遠されていたのです。

第8交響曲から第9交響曲までには、十年もの長いブランクがありました。
この間のベートーヴェンは、引き取った甥のカールの自殺未遂など苦難が続き、
作曲の作業も捗らないスランプの時期を過ごしていました。

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聴衆からも少し忘れかけられていたベートーヴェンでしたが、
それだからこそ第9という、型破りなスケールの交響曲を存分に書けたのかもしれません。
全演奏に1時間以上を要するのは前代未聞でしたし、最終楽章に声楽を入れるのは、
それこそ、きわめて稀に見るアイディアと言えるものでした。

完成した第9交響曲は当初、ウィーンではなくロンドンで初演される予定でした。
ロンドンはウィーンとは対照的にベートーヴェンに対して好意的だったのです。

しかし、それを知ったウィーンの人々はあわてました。
一時の勢いはなかったとは言え、ウィーンが誇る大作曲家の新作交響曲の初演が、
よその国で行われるとあってはたまったものではありません。

急いで数十名の署名を集め、新作のウィーンでの初演を懇願すると共に、
ベートーヴェンへのあらん限りの支援を申し出ました。
これに折れたベートーヴェンは当初の予定を撤回し、1824年5月7日に、
ウィーンのケルントナートーア劇場で、交響曲第9番は初演されたのでした。

第9の第1楽章はこのブログでは3回目の掲載となります。
一度目は開設当初の今から8年ほど前で、二度目は昨年の初夏です。

私事ではありますが、この1年半ほどの間に様々な苦難を経験しました。
正直に言って、これまで生きて来た中で最も苦しかったです。
そして、この経験を通して、私の中の人生観も激変しました。
そこでどうしても、もう一度、第9の第1楽章に取り組んでみたくなったのです。

昨年の演奏はかなり速いテンポだったと思います。
対して今回は、一転して遅めのテンポになりました。
1年半の自分の経験が、少しは活かされたものになったかもしれません。
第9の第1楽章は本当に奥が深いです。

どうしても華やかな第4楽章に目が行ってしまうのは仕方ないとは言え、
もっと第1楽章に注目が集まることを願ってやみません。
ベートーヴェンの交響曲では霊感に満ちた最高の楽章と言えるでしょうし、
もしかすると、あらゆる音楽の中でも最高のものかもしれないからです。





ベートーヴェン:交響曲 第9番 ニ短調 Op.125 「合唱」 第1楽章
L.V.Beethoven:Symphony No.9 in D minor, Op.125 "Choral"
1. Allegro ma non troppo, un poco maestoso [17:53]



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2014年12月05日


モーツァルト:レクイエム ニ短調 K.626 “怒りの日”

モーツァルト:レクイエム
ワルター(ブルーノ) リップ(ウィルマ) レッスル=マイダン(ヒルデ) デルモータ(アントン) エーデルマン(オットー) ウィーン楽友協会合唱団
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♪自身のためのレクイエム(鎮魂歌)にもなった最後の名作

モーツァルトの天才ぶりについては、しばしばこんなことが語られます。
彼は一瞬のひらめきの内に、交響曲一曲分の青写真が見えていて、
あとはそれを譜面に書き起こす作業が残っていただけだったと…。

たしかにそれは事実だったのかもしれませんが、
一方では彼もまた人間だったことを示す、興味深い話もあります。

ある音楽家がウィーンのモーツァルトゆかりの地を訪ねていると、
歌劇「魔笛」の草稿が目に飛び込んできました。
その譜面には何度も書き直した苦心の様が表されていて、
隅には苛立ちからペンで突き刺したあとがいくつもあったと言います。

「魔笛」は病に苦しんだ最晩年の作品だからということもあるでしょうが、
モーツァルトにもそうした面があったのかと思うと、なぜか安堵を感じます。

そんな「魔笛」と同じ年に書かれた最後の作品が、名作として名高い「レクイエム」です。
「魔笛」の完成も近づいた、1791年7月のある日、見知らぬ男がモーツァルトを訪ね、
レクイエム作曲の依頼と謝礼について書かれた、無署名の手紙を差し出しました。

経済的に厳しかったこともあり、モーツァルトはすぐにこの仕事を引き受けました。
ただ、自身の体調がすぐれず、鬱々とした精神状態でのこの依頼は、
何か不吉なものに感じられて、モーツァルトはショックを受けずにいられませんでした。

やがて彼は、あの男は死の世界からの使者であり、
この作品は自分のためのレクイエムではないかと考えるようになりました。

歌劇「ドン・ジョバンニ」の台本作家ダ・ボンテにあてた手紙では、
「最早、私の生命の終わりが近づいたと覚悟しています。
運命ならばあきらめなければなりません。これは私の葬儀の歌です。」
といったような内容を綴っています。

そしてそう予見した通り、レクイエムは彼の遺作となってしまいました。
それも、モーツァルト自身の筆で完成させることはできず、
弟子のジュスマイアーに未完部分の手はずを伝え、 その後間もなく意識を失い、
1791年12月5日に帰らぬ人となったのでした。

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レクイエム作曲中のモーツァルトは何かに憑かれたように作業を進め、
体力の衰えから筆が持てない時は、弟子に指図して代筆させました。
妻を含め周囲がもうやめた方がいいとすすめても全く聞かず、
床から起き上がれなくなっても作曲をやめることはありませんでした。

「魔笛」の作曲中にも何度も気を失ったというモーツァルト。
彼の音楽に対する執念ともいうべき情熱には、ただ頭が下がるばかりです。

モーツァルトの完全に調和した音楽は、どこからか降って湧いたものばかりではなく、
たゆまぬ努力と熱意の賜物でもあったのです。





モーツァルト:レクイエム ニ短調 K.626 “怒りの日”
W.A.Mozart:Requiem in D minor, K.626 "Dies Irae" [1:54]



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