2014年07月26日


ドビュッシー:アラベスク 第1番 ホ長調 [新録音2014]

ドビュッシー : 月の光、亜麻色の髪の乙女
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アントルモン(フィリップ)
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♪それまでの西洋音楽の概念を覆したドビュッシーの音楽

独創的な楽風によってフランスの楽壇に旋風を巻き起こしたクロード・ドビュッシーは、
1862年、パリ郊外のサン・ジェルマン=アン=レーで生まれました。

父親は瀬戸物屋を営んでいましたが、クロードが二歳の時に転職。
一家がパリのモンマルトルに居を移すと、会社の経理係を始めました。

叔母にあたるルウスタン夫人は半ば母親代わりで、一家に経済的援助を行うなど
何かにつけ面倒を見ることを怠らず、クロードの音楽勉強の世話もしました。

そんな甲斐があってか、早熟の天才だった彼は11歳にしてパリ音楽院に入学。
ここでピアノ、和声、対位法の基礎を学び、さらに作曲学の教室で研鑽を積みました。
そして1884年のカンタータ「蕩児」でローマ大賞を受賞、ローマに3年間留学しました。

しかし、ローマから帰国したドビュッシーに対し、パリの楽壇は冷淡であり、
その独創的な音楽が認められるまでには、さらに数年の月日を要したのです。
ようやく彼が世間から認められたのは、32歳の作「牧神の午後への前奏曲」によってです。

当時のフランスの画壇では、マネ、ルノアール、セザンヌ、ゴーギャンといった大家が、
フランス印象主義を打ち立て、世界に影響を及ぼしていました。
ドビュッシーはこれを音楽の世界にも取り入れようとしたのです。

1889年に開催されたパリ万博は、ドビュッシーのインスピレーションを掻き立てました。
東洋の展示館で聴いた異国のリズムと旋律は、その後の作曲に大きく影響を表します。
ドレミソラの5音階による旋律はその代表例です。

ドビュッシーは日本の文化に憧れ、部屋には陶器や金魚鉢を置き、
壁には広重や歌麿の浮世絵を飾り、そこから作曲のイメージを膨らませました。
交響詩「海」が北斎の画から霊感を受けているのは知られた話です。

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こうした東洋的なイメージと、ワーグナーに影響された無調的な音楽観が、
ドビュッシー独自の印象派の楽風を築く土台になったのでした。

「2つのアラベスク」は、イタリア留学から帰ってすぐに作曲された、
ドビュッシーが26,7歳頃の初期のピアノ作品です。

当時パリで流行していたアラベスクという唐草模様は、
音楽やバレエなどの芸術にも言葉やイメージが取り入れられ、
アラベスクと名のつく作品を数多く生み出しました。

ドビュッシーもそうした流行に乗じて、2曲のピアノ曲を作曲しました。
それらが「2つのアラベスク」として1891年に出版されたのです。

2曲とも唐草模様の様に音が絡み合いながら展開していきますが、
トリル風のフレーズが主体の活発な2番に比べて第1番は、
流れるようなアルペジオの伴奏の上を、優しい旋律が寄り添うように漂っていきます。
テレビCMなどでも取り上げられることの多い、とても愛好される作品です。





ドビュッシー:アラベスク 第1番 ホ長調 [新録音2014][4:15]
Claude Debussy:Arabesque No.1 in E major



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posted by CMSL クラシック名曲サウンドライブラリー at 13:51 | 器楽曲・Piano | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする